京都市下京区烏丸五条駅前にある片山司法書士事務所の冗長歴

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冗長歴

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冗長歴

生誕

19○×年1月1日元旦、三重県津市にて生まれる。小学生時代、近所では、マーク・レスター並にかわいい(例えが古い。昭和40年代)と評判になる。今もじっくり探せばその面影はある・・・かも。

めでたくも元旦に生まれるが、いいことはこれといってない。クリスマスと正月と誕生日の祝い事を一緒くたにされ、誕生日にケーキを食べたことやプレゼントをもらったことはない。友人の誕生会に呼ばれるとプレゼントを持って馳せ参じるも、私の誕生日の元旦は皆、家族で忙しいようで、誰もプレゼントを持って来てはくれない。あげくに親からも、「おまえだけがめでたいんやない。日本中、皆がめでたいんや。あんまりええ気になんな。」とまで言われる始末。当時は元旦にケーキを買うすべもなく、「鏡餅にロウソクでも立てて食っとけ」、とのたまわれる。その頃、主に甘味は松永のしるこサンド、塩味は原野のしゃりべん太郎でとっていたものだ。

幼少期(津幼稚園:キンダークリッペ)

子供の頃からテレビはよく見た。ジャンル別にざっと挙げても、アニメでは狼少年ケンやスーパージェッターやビッグX、時代劇では旅がらす紅お仙や素浪人花山大吉、コメディーではてなもんや三度笠やゲバゲバ90分、バラエティーでは道頓堀アワーやノックは無用、お笑いでは若井はんじ・けんじや花木京、アクションではキイハンター、ドラマではおやじ太鼓や気になる嫁さんやてんつくてん、ヒーローものでは超人バロム1やウルトラQ、歌番組ではロッテ歌のアルバムやベスト30歌謡曲、オカルトなら河童の三平や怪奇大作戦や悪魔くん等等、まさに冗長。

小学生時代(津市立新町小学校)

小学生になると、周囲は自然がいっぱいだったので、夏は1日中、カブト虫・セミ取り、川遊びをして遊ぶ。その時の思い出は今でも鮮明で、ノスタルジーを感じる。自然に恵まれた「故郷」があるということの幸せと「感動」の大切さを次の世代に伝えなければと、そっと手を見る。

小学校5年の時、アントニオ猪木とストロング小林の試合を見て、プロレスにはまる。お気に入りは、マーク・ルーインにチャボ・ゲレロ、ディック・スレイターで、四天王(猪木・馬場・大木金太郎)のひとりと言われたマンモス鈴木も気になる、少し変わった小学生だった。生まれて初めて買ったシングルレコードもジグソーのスカイハイである。ミル・マスカラスの入場曲だったから。ちなみに、最初に買ったLPレコードは岩崎宏美の「飛行船」であった。

当時のプロレスは過渡期であった。日本プロレスから分かれ新日本プロレスを率いる猪木はプロレスをショーとして魅せる商才があった。世界ヘビーでもないNWFのベルトを無名のジョニー・パワーズから奪うのを大いにアピールしたり、大木金太郎と頭突き対決をしたり、巨漢のマクガイヤ・ブラザーズに入場前にリングサイドを小さなホンダモンキーで走らせリング内ではコミカルにお尻を振らせたり、ピークをとうに過ぎたカール・ゴッチやルーテーズを神様として崇め高めたり、タイガー・ジェット・シンにサーベルを持って暴れさせたり、奇声を放しよだれを垂らすブルートバーナードに子供ながらにこれはテレビで流していいのかと心配させたり、古舘伊知郎にアンドレ・ザ・ジャイアントを人間山脈と例える等甲高い早口で大げさな実況をさせたり。対して馬場率いる全日本プロレスはお金をかけて当時NWA王者のファンク兄弟やジャック・ブリスコ、ハリーレイス、WWWF圏内からブルーノ・サンマルチノやペドロ・モラレス等世界中から実力者を呼んでプロレスを真面目に頑張っていた。バスケから転向したバネのある鶴田友美(ジャンボ鶴田)の炎の十番勝負も対戦相手が実力者ばかりで見応えがあった。こちらもピークを過ぎたデストロイヤーは使ったが同じマスクマンで人気の高いミル・マスカラスをうまく呼んできたものだ。それら2強団体に比べ、ラッシャー木村率いる国際プロレスは地味だったが、予算が無い中唯一、AWA圏内の帝王バーンガニアやニックボックウィンクルを呼んで来れたのでそれはそれで頑張っていたように思う。ストロング小林脱退後も、マイティ井上や寺西勇の試合は面白かった。当時はそれらの興業以外に、女子プロレスと一緒に小人プロレスというのをやっていた。天草海坊主や隼大五郎がお気に入りだった。

そんなある日、地元の津市体育館に巡業で来たペドロ・モラレスの脇の下をリング入場(小学生ながらお金を貯めて4千円の特別リングサイドにてひとりで観戦)のどさくさにまぎれてくすぐったら「ALL RIGHT」と言われる。意味がわからなかったので喜んでいるのかと思い、さらにくすぐる。少し嫌そうな顔をしたのでやめる。続いて場外乱闘のアブドラ・ザ・ブッチャーの額の血を、持っていた入場券の半券の裏でふき取ったら怒鳴られる。本当の血ではなかったのだろうか。この時、外国人は怖く、難しいものだと思った。以後英語を勉強する意欲が失せた。

中学生時代(津市立西橋内中学校)

中学は「俺は男だ」の森田健作に憧れ剣道部に。入部してから学内で一番厳しいクラブと知るが、やめられず3年間やり通す。ここでの激しい練習で我慢・忍耐・根性がついたのかなと思う。ただ、ドラマのようなマドンナ・吉川君は最後まで現れなかった。小手と面の臭さは想像を絶するもので、多分そのせいで彼女ができなかったのだと、自分に言い聞かす。 仕方ないので練習に励み、地区団体で大将として優勝、個人で準優勝する。得意技は「抜き胴」と「出鼻ごて」。相手が出てきたところを素早く返す技で、素人目にはキレがありすごい技だが、私は単に積極的に自分から面を打っていくと疲れるから、返し技を磨いただけである。

当時はスマイルバッジを付けたマジソンバックに日本手ぬぐいを入れてシャレていたものだ。

高校生時代(三重県立津高校)

卒業後、日本で一番短い名称の高校と言われた津高校に進学。

高校も剣道部へ。2段を取るも、マージャンとバイクを覚え、退部。

バイクは皆がスポーツバイクやトレールバイクを新車で買うのに自分はホンダのカブ(スーパーカブC50デラックス)を中古で買う。最後までラッタッタ(ソフィアローレンCMのロードパル)と迷ったが、剣道の試合の際に防具を載せるにはカブの荷台でないとだめだと考え、カブにした。荷台ばかりか前カゴも大きい。ただ、ビジネスチックなのでシートだけ、ホワイトにしてオシャレしてみた。だが、周囲の目線はどうみても普通の「おっちゃんバイク」のようだった。 この頃から既に、「もし嫌々多くの人が言う通りやって失敗した場合、全部責任取ってくれるのか。どっちみち自己責任なら人がどう思おうが自分の人生、自分の好きなようにやろう!」、「考えたことは考えた通り実行しなければ考えた意味が無い」という自分なりのものさしがあったようだ。

次に、マージャンは当時、学生ズボンの左右のポケットに常にマージャン牌を4、5個入れ、授業中は勿論、廊下を歩いているときもずっとズボンに手を入れモゾモゾと盲パイの練習に励んだ。今やれば完全にあぶないおじさんである。冬の寒い日のマージャンの為に軍手の右手親指と人差指、中指の先を切り取り、盲パイができるように工夫するアイデアマンでもあった。また、ラグビーで腕の骨を折った日も片手で積み込みをする根性も兼ね備えていた。 おかげで卒業アルバムには「片山=マージャン」と写真付きで書かれた。当然、親には見せられず、今年はうるう年で卒業アルバムは作られなかったとウソをつく。倫理道徳の授業で皆でいじめ問題を考える時間があり、先生に順番に、人にされて一番嫌なことを言わされた際、私が「追っかけリーチ」と答えたら、「それはいじめと関係ないでしょう」と真面目に諭されたのが懐かしい。

大学生時代(同志社大学)

勉強せず、落ちこぼれだったが進学校だったので何とか同志社大学には合格。浪人も考えたが、進学することに。以後ずっと京都で暮らすとは考えてもいなかった。「逆らえない世の流れには身をゆだねるのもこれまた人生」と、そっと手を見る。 (よく手を見るが、当然何も書かれてはいないし、何も見えはしない。)

大学ではマージャン部に入りたかったが、無かったので将棋部に入り、マージャンづけに。 並行して、バイトにも明け暮れる。夜7時から朝5時までサパークラブ(BALビルを東に入った雑居ビルの5階にあったサパークラブ・アイリー)でバイトをし、次いでそのまま朝9時から夕方5時まで向かいのBALビルの電気保守のバイト(後述するがこれが後に電気工事士の資格をとる原因に)をする。友達には一体いつ寝ているのかと言われたが、いつ勉強してるのかとは聞かれなかった。 また、この頃知り合ったゼミの友達の影響で、旅行と洋楽にはまる。いつもお金が無い貧乏学生であったが、非常に楽しい毎日を過ごした。当時の友達とは今も仲良しだ。

就活

就職活動は特にしなかった。自分はサラリーマンには向かないと感じたからだ。 唯一就活した面接先で、他の学生には難しい質問をしていたのに私に来た質問といえば、「得意なマージャンの役は何ですか?」。 おもわず、「はぁー?」と思ったが間髪いれず、「タンピンサンシキです」と真面目に言い放った。結果落とされる。今、聞けるのなら、その質問の正解は何だったのか? 「チャンタ系かホンイツ系、はたまたトイトイ系」がお好みかしら。確かに履歴書の「大学時代にやったこと」の欄に大きく「マージャン!」としか書かなかったのだから仕方ないのだが・・・ 。
 そんな中でも積極性だけはあり、集団面接時、最近読んだ本はと聞かれた際、真っ先に手を挙げ、「プロ麻雀」と「近代麻雀」と「GORO」と答えてやったのだった。続いての作文も、テーマが「尊敬する人」だったので、迷わず色川武大(麻雀放浪記の著者:阿佐田哲也)を選択し、麻雀やちんちろりんといった闇のバクチで生きる、武骨でアウトローな男の生き様について、自分もそのように一匹狼として、孤独に耐え、無口に、ニヒルに生きていくのだと、熱く論じた。その後、何の音沙汰もなかったが、いかにも組織には向かないと思ったのかもしれない。正解。

京都佐川急便ドライバー時代

そんな時、本で、「若い頃は、頭を使うより、身体を使って働け。若い頃からえらそうに理屈をこねるより、下積みの苦しさを味わった方が、将来、より人の痛みがわかり、役に立つ」と書いてあるのを見て、その通りと思い(単純!)、大型免許と大型特殊免許を取って、当時一番きついと評判の佐川急便に入る。 入ると言っても、当時はアルバイトからしかドライバーになれなかったので、大卒でも単に不安定なバイトである。

35年程前の昭和の時代、創業地である本店京都での佐川の仕事はきつかった ! 明け方早朝から出社し、荷物の仕分け・積み込み、その後、日中は走りながら配達と集荷、帰社してからは夜中までホーム作業を続けるため、睡眠不足と過労がひどく、延々と続く荷物の積み下ろしをしながら皆で高校野球の練習のように声を出して気合を入れないとやってられなかった。そのせいか、その頃の私の声はひどくかすれ、ボニータイラーかキムカーンズ、葛城ユキばりのハスキーボイスだった。(やはり例えが古い。昭和50年代)

退路を断つ為、手荷物とバイク2台(SS250マッハⅠ・GSX750E)で、寮に入る。当時は毎日バイトで10人くらい新人として入るが、次の日にまた会えるのは数名で、ひと月後にいるのは一人いるかいないかだった。昔の佐川は、その仕事のきつさから、大学新卒で寮生活のバイトに入りドライバーを目指す者は皆無で、ほとんどが中学、高校出のいわゆるやんちゃ系の者ばかりだった。その中でバイトからドライバーに成れるのはほんの一握りだったが、運よく半年ほどでドライバーになる。
そこで、ひとつ目標を立てる。 「30歳までに1000万円貯めて、ハーレーを買って、さすらいの野宿ライダーとなり、日本一周ソロツーリングをする。その間に今後どこで住み、何の仕事をしたいかをゆっくり考えよう!」。

昔は、試験場で飛び込みでしか大型自動二輪は取れず、試験も平日のみで非常に難しかった。また、ハーレー自体の価格も高かったので、まだ乗る者は少なかったが、本宮ひろ志の「俺の空」の武尊が乗っていたこともあり、私には憧れだったのである。

現実はというと、限定解除で免許を取り、ハーレーも30年以上前に新車で買ったが、「26歳で500万円貯めてハーレーで北海道を楽してユースと国民宿舎に泊り、一周して帰ってくる。」と、全て中途半端である。1980年代の北海道ツーリングは、250や400のロードスポーツかオフ車ばかりで、大型、それもハーレーには1台も出会わなかった。未舗装が多いので大変だったが、視界が広がる静かな大地をどくんどくんと鼓動を楽しみ走ったのが懐かしい。


ハーレーで北海道一周

佐川では5年頑張るが、椎間板ヘルニアになり退社。

司法書士

肉体をフルに使った仕事ができなくなったのと、急遽田舎から親を呼び寄せて面倒をみないといけなくなり、目先のお金も必要となったので、仕方なくイヤな勉強してでも、修行や丁稚奉公を要せず、すぐ独立できる資格の取得を目指す。

大学入学から10年以上全く勉強していなかったので(こう言うと、高校時代は勉強していたようだが決してそんなことはない)、かえって学ぶことが新鮮で勉強に集中できたのは皮肉なことだ。大学は商学部出なのになぜか法律系の司法書士を目指す。特に意味は無い。何の勉強もしてこなかったので、何でも一緒だろうと思っただけだ。その時は「商学部=税理士」は、まとも過ぎてレールに乗った感が面白みが無いと感じたのだろう。(普通はそれでいいのだが・・・)
「司法書士? 堅そうやん。→頭よさそうやん。→お金持ちそうやん。→安定してそうやん。→ええやん。」と論理的(?)に決断。

平成2年8月に退社し、始めて法律に触れる。2ヶ月後の10月に行政書士と宅建の2つの試験を2週続けて受ける。見事まぐれで両方合格。法律の素養があると勝手に断定し、バイトをしながら司法書士の勉強を始めることになる。

時給がよくて、勉強に影響しないようそれほど疲れが残らなく、プロっぽい大型免許所持者のバイトは、路線の大型トラックや新車のディーラーへの配送のバイト、送迎バスの運転しかないのだと思い込み、まずは試験場に飛び込みで大型二種免許を取りに行こうと考える。我ながら無鉄砲かと思うが、最初の実技試験を何の予備知識もなく受験した。まず、安全確認してバスの中に入って初めてエンジンをどうかけるかやギアを見て変速方法を考えた。バスは、運転は勿論したことはなく(4トンロング保冷車やマイクロバスの運転や10トン保冷車の横づけは経験あり)、ギアは普通車のミッションと違いどうなっているのか操作方法がよくわからない中で試験は行われた。結果は勿論不合格。ただ、一応最後までコースを走らせてもらえた。その後は、自動二輪の限定解除(昭和に取ったいわゆる自動二輪限定解除は週一回試験場に朝からヘルメットで順番取りをして並んで受けて100人中7人ほどしか通らず、いつ受かるかわからない難関試験だった)から、飛び込みで試験を受けるのが得意となったこともあり、4回目でみごと合格。この大型二種の免許を活かし毎朝夕、送迎バスの運転手をするとともに、取ったばかりの宅建主任者資格を活かして不動産会社の重要事項の説明を請け負う。両方、面接で「実務経験はありますか?」との質問を受けたが、「あります!」と言い切る。生きていく為にはこれぐらいのウソも必要と勝手に割り切る。

さて、この頃、大変なことに気づく。司法書士試験とは合格率2%の難関資格であり、それも大学の法学部出身者や司法試験経験者が多く受験するというもので、分母の質も高いのだという。そんなの一番最初に調べておくことやんとよく言われたが、通るように勉強すれば通ると思ってたんやから仕方ないやん。しかし、ここでも楽観的な性格からか、「100人に2人かー。でも、受験者数3万人やし合格者も600人かー。100メートル9秒で走れといわれれば、はなから無理だが、600人も合格するなら努力したら合格しそうやなー。」
 予定通り、働きながら平成4年司法書士も一発合格を果たす。お金も無く尻に火がついていて必死だったのもあるが、人生「運と勘とツキとポジティブ思考」だと実感したのだった。

趣味その他

すぐに独立。不思議なもので最初から仕事はそこそこあった。ただ、仕事の特殊性で時間をもてあました。そこでいろいろやってみる。

まず、バイクにはまる。当時乗っていた1340CCハーレーのソフテイルカスタムからスプリンガーに乗り換えを機にハーレーストリップチョッパー会に入る。京都ハーレークラブのような紳士なクラブではなく、やんちゃなおっちゃんばっかで、西部劇のようなチャップスをはいてひたすら集団で走る。四国や中京のチョッパー会と最高100台位でトンネル内を走った時はあの突き上げるようなハーレーサウンドと振動にしびれた。

その後、CBX750F、GSX750S刀をしばらく乗った後、一人でオフロードも走る長距離ツーリングをしたくなったので、アフリカツイン(オフロードのナナハン)とジェベル200に乗り替える。大型バイクを乗り継ぎ、暫くはリード125とツーリングセロー250に落ち着く。半日時間が空くと、セローで、亀岡~るり渓~京北ルートか、今津(琵琶湖西)ルートをひとりでよくトコトコ走る。(先日、セローで地道を400キロ走る日帰りソロツーリングをしたら3日目にすごい疲労がきた。年か。)


ツーリングセロー250

遠方にも行きたいがセローで高速はしんどいので、モデルチェンジしたばかりのCB1100EXの2017年モデルを購入。ダエグやXJRも撤退し、排ガス規制も厳しく、今の流行ではない空冷4発1140CCの大型ネイキッド・乾燥255kgの鉄の塊だが、重厚な排気音と手の込んだ美しいフィンにスポークホイール、直4左右2本出しマフラー、分厚いざぶとんシート、丸目の大型フロント一眼ライト、プラスチックが少ないクロームメッキ処理されたパーツ類といった昭和スタイルがなぜか懐かしい。ごきげんで、慣らし1000キロは4日で達成。復刻版と言われ登場したZ900RSも水冷では食指が動かない。なのに、フィンだけ空冷に模すとか、ださい。

そういえば、35年前に受けた限定解除の試験車もCB750KとCB750FB・750FCという、CBだった。遠くに行くには荷物を積む場所を確保したいが美観的にリアにキャリアやボックスは付けたくない。ストリップハーレー同様、不便さを楽しむ、そんな単車だ。高校生の頃、カタログを見て胸躍っていたCJ360TやCB400Fのイメージカラーだった山吹色っぽいイエローがまた映える。最後まで迷ったV-Strom650XTも蛍光色だがイエロー(スズキで言うところのチャンピオンイエロー)だった。

毎年、インテックス大阪の大阪モーターサイクルショーに行っていて新型も気になるところだが、今はCB1000RとCRF250ラリー、GSX-R125 ABSが気になっている。


CB1100EX

考えるに、昔から、西部劇(特にマカロニウェスタンのジュリアーノ・ジェンマやリー・ヴァン・クリーフ、フランコ・ネロの大ファン)やカントリーウェスタン音楽(昔から京都にはホンキー・トンクやチャックワゴン、ケニ-ズといったカントリーバーが賑わっていた)が大好きだったので、未だに馬や2輪が好きなんであろう。


最後のカウボーイと

次いで車にはまる。若い頃は、ギャラン ラムダや117クーペといった2ドアを好んで乗っていたが、司法書士となり人を乗せることも増えたので、スーツで落ち着いて乗れる4枚のクラウンロイサルを購入。しかしこれがちっともおもしろくなく、インプレッサSTIに乗り換え。以後、その加速力にはまる。1速でおもいっきり引っ張り、2、3速でしか走らない。おもしろかったがまっ黄色の車体に大きなリアウィング、爆音を鳴らした車では冠婚葬祭にも参列できないので、黒のスカイラインクーペに乗り替える。280馬力スポーツカーを乗り継ぐも、やはり飽きるもので、次いで700ccのおしゃれなスマートクーペに乗り換える。
 ところが、この車で事件が。ある日、物件案内のお客さんを迎えに行ったら当然一人かと思いきや2人立っていたのを見て、無理やん!(スマートクーペは完全な二人乗り。頭の中は私が降りるか、どちらか一人を乗せるかでグルグル)という、夢のような恐ろしいできごとがあった。そんなことがあるのかと(夫婦で家を購入するので少し考えればわかりそうだが・・・)、5人乗りで当時、安くて納車の早いカローラフィルダーにすぐさま乗り換える。

以後欲しいと思うような車が無く、興味も薄れていた時に、久しぶりにおもしろい車を見つけ、乗り換えた。マイナーチェンジ後のアテンザワゴンである。最後まで300ps・4WD・アイサイトver3のスバルWRXS4と迷ったが、これにはマニュアル車の設定がない。また、アテンザのボリューム感ある美しい外観、ホワイトの革シートを持つ私に似た清楚な内装、使い切れない程の安全装置てんこ盛り、2.2リッターのディーゼルターボ・AWD・6速マニュアル仕様(インプSTI以来のMT)といった唯一無二の存在感と、二年足らずで大幅なマイチェンを敢行したマツダの車作りにかける心意気が気に入った。ディーゼル・ワゴン・4WD・MTは好きなもんにはたまらんのだ。クリーンディーゼルなので経済的で、ディーゼル故のトルク感も味わえ、走りも非常に楽しい車である。ただ、難点は、サイズが幅1.8M超、長さ4.8Mと大きく、京都の狭い道は気を使う。しかし、現在、遊び車として物色中のFJクルーザーは、1.9Mと、より幅が広い。


北海道・沖縄

さてさて、旅行にもはまる。
 夏は例年北海道をレンタカーで5日間延べ1400キロ走る。北海道には年に4~5回行っていた時期もあるので、もう何回行ったかわからない。特に知床はいい。眼前に見る羅臼岳にはいつも圧倒される。食べ物もいい。カニ・ウニ・イクラ・ほっけ等魚介類と、ジンギスカン・帯広豚丼等の肉類、はたまた、メロンやとうもろこし、濃い濃いソフトクリームをしこたま食らう。ヒグマや鹿、キタキツネ、リスといった野生の動物も見られる。ただ、昔は、夏の北海道は涼しく、伊丹から2時間の飛行で至福のリゾート感を味わえたが、最近は日によって本土より暑いこともある。湿度も高い京都よりは随分ましだが。

冬は例年3日間沖縄滞在。三線と沖縄民謡と島とうがらしにはまる。妻は43度泡盛をロックで浴びる。お金が無い大学生の頃は夏の沖縄本島や与論島に1ヶ月程滞在したものだが、その際よく通ったジャッキーステーキハウスが今もやっているのはうれしい。

近い将来、ハイエースをトランポ兼キャンピングカー仕様に改造して日本中を旅する予定。その前に数年後には現行200系ハイエースをトランポ化し、125か250のオフロードバイクを積んでフェリーに揺られ毎年夏の北海道に1ヶ月程滞在することから始めたいと思っていた。そのため、毎年、インテックス大阪の大阪キャンピングカーショーに行って情報収集をしていたのだが、ここで大問題となってきたのが、2019年の新型300系ハイエースのセミキャブオーバー化問題。荷室が狭くなるのでとても困っている。


車・バイク

次に「登記」と「陶器」をシャレて陶芸教室遊楽を始める。生徒さんを集めるのに無謀にも知識ゼロから自分でホームページを作ろうと考える。まず、初級シスアドを取り理論武装した上で、adobe Illusutrator CS、Photoshop CS、Dreamweaver MX2004、Fireworks MX2004で制作。CSSレイアウトやW3C準拠、SEOにも気を配る。このサイト(さらにこのサイトはAdobe CS6を使い、HTML5とCSS3でスマホ対応に作り直したのだ)も全て自作だからこんな意味の無いことばかりを書けるのである。(お金を払ってホームページ制作会社に書いてもらうことでは決してないのである)

陶芸教室で集客のおもしろさを知り、マーケティングや経営戦略に興味を抱き、中小企業診断士の試験を受ける。半年勉強して1次には受かるが、2次の勉強の過程で、実務に生かすことがおもしろくなり、机上で当たり障りのない答えを出す現代国語の試験のような勉強にやる気が失せる。 ただ、その流れでアライアンスの大切さを知り、京都起業サポート京都相続・後見サポート京都中古住宅購入サポート(サイトは全て自作)を立ち上げる。いわゆる、デルタモデルのトータル・カスタマー・ソリューション戦略(なんのこっちゃ)効果を狙ったものだ。


ケーキ

360度話は変わるが(元に戻ってる。冒頭のクリスマスケーキの件を見よ)、子供の頃、誕生日にケーキを食べれなかった腹いせからか、パン・お菓子作りと料理にもはまる。鯖寿司や出し巻き卵、そば打ち、カスタードプディング、アップルパイ作りにのめりこむ。結果、塩と砂糖、バター、卵、生クリームの取りすぎで体調崩す。
 それでも、てっさが大好きということもあり、中央市場で丸ごとを安く売ってもらうため、ふぐ処理師の免許を取る。これがあれば、ふぐの種類や毒の部位もわかるようになるので、自分や他の人が釣ってきたものも捌いて食べられるのである。試験は、学科と、鑑別、実技の三段階。学科はマークシートだが、鑑別は10枚程のパネル上のふぐの種類を当てさせられ、次いでパレット上の実物の内臓が何かを判定させるものであった。実技は、本物のフグ一匹とまな板を渡され、自前の出刃包丁で3枚におろした上で、可食部とそうでないものを分け、さらに各内臓の種類に名札を付けさせられた。通常の三枚おろしは、当時さば寿司をよく作っていたので得意だったが、ふぐは皮むきからたいへん。骨から身をはずすのも難しく、全く勝手が違う。時間内にできなければ不合格となるが、見事、全てクリア。そのまま勢いで、調理師と製菓衛生師も取る。 意外と飲食業で起業する人の役にも立っている。

鰻にも目が無く、数ヶ月に一度は、津の名店、うなふじに通う。ただ、うなふじがあまりにも有名になり、平日でも開店から行列必至なので、最近では、谷本や小川、はし家、大観亭、新玉亭、うなふじ支店といった他店にもよく行くこととなった。各店タレの甘味に違いがあり、津のウナギは味わい深い。この甘辛いタレというのが子供の時から大好きで、たまに、昼間にすき焼きが無性に食べたくなる時があり、その際は京都大丸地下の三嶋亭ですき焼き膳を食べる。事務所と公証人役場の間に京都大丸があるので、公証人役場を予約する際は、そのすき焼きランチ時間に合わせて予約するという徹底ぶりである。

猪肉も好物で、毎年行く丹波の立杭祭りの帰りに猪焼肉を食べたり、年数回は、ネットでしめて間の無い猪肉を注文して家でぼたん鍋で温まる。京都では白味噌仕立てでいただく猪鍋専門店もある。

上賀茂神社の手作り市によく行くが、そこでの帰りのランチは、カントリー家族でカントリーミュージックを聞きながら、硬い米国産ステーキ肉を食らう。


そば打ち

バイクの電装をいじったり、学研の電子ブロックを買ったりしたので、電気実務を学ぶため、第二種電気工事士を取った。実は、佐川に入ってすぐに電気工事での独立を目指し、睡眠4時間の合間をみて寮でひそかに勉強していた。ただ、当時は実技試験の教材もなく、そうかといって実務経験も無かった(BALビルでビルメンのバイトをしただけ)ので学科は通ったが実技は落ちたことがある。よって、やはり問題は技能試験(今回も学科は問題なく通った)であった。与えられた単線図を複線図におこした上で、実際に工具を使ってランプやスイッチ、コンセント等の配線作業をするのだが、VVFストリッパや圧着工具といった専門工具を使ってリングスリープの圧着や差込型コネクタ接続までしなければならない。40分で欠陥なく完成させれば合格となるが、練習の成果か、30分で見直しまででき合格。テナントビル一棟売りの売買仲介する際、重説で設備関係の問題点を洗い出し引継ぎをするのだが、それに大いに役立った。これで、人を雇うか外注で電気工事も請け負える。持っている株式会社の目的に電気工事業を入れているので、500万円までの工事なら建設業の許可なく請け負えるのである。夏場のエアコン取付け工事でもするか。

家で一人でいるときは、好きなサックスジャズ(ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーン、コールマン・ホーキンス、マイルス・デイビス、ナベサダ)やカントリーミュージックを聞きながら、マウナロアのマカダミアナッツをつまみに赤ワインを飲み、ハードボイルド冒険小説(昔の北方謙三や大沢在昌)を読むのが至福である。

カントリーミュージックと言えばジョニー・キャッシュだが、以前、カントリーバーでパーティーがあり、ビンゴでそのジョニーキャッシュのキャップが当たって喜んでいたら、その帽子の真中に大きく「CASH」と名前が書かれているだけで、知らない人が見たら、「キャッシュ=現金・お金」にしか目がない人に見られそうなので、惜しいが未だかぶれていない。果たして本物か???


魚

また、飼っていたヒメダカやミナミヌマエビが自宅ベランダで大繁殖したため、新たに淡水魚の水槽を2槽、事務所で立ち上げ、それら以外に、タナゴ(ニッポンバラタナゴ・タイリクバラタナゴ)、モロコ(タモロコ・ヒナモロコ)、ヒナハゼ、ドジョウ(スジシマドジョウ・ヤマトシマドジョウ・マドジョウ・ホトケドジョウ)、メダカ(楊貴妃メダカ・クロメダカ・白メダカ・小川ブラック・パンダメダカ)、貝(ヒメタニシ・マツカサ貝・ドブ貝)、水草等を、ワイルドにも放し飼い(当たり前か)にしている。エビやメダカは勝手に繁殖するが、二枚貝がすぐ死ぬのでタナゴの産卵は難しい。(タナゴが二枚貝にしか産卵しないとは、この歳になって初めて知った。)二枚貝には豆乳を薄めてスポイトでわざわざ声掛けをしながら餌を与えるのが仕事だ。

最近は、全自動麻雀卓を購入し、主に高校時代や佐川時代の友人とマージャンを楽しんでいる。

夜はといえば、祇園のカウンター割烹によく出没する・・・らしい。

まだまだ人生は長い。はまりながら、楽しみながら、気楽に考えようと思う。

ここまで読んだあなたに感謝。

リンクで誘導しておいて何だが、堅そうな司法書士事務所のホームページの中で、かつてこれ程ダラダラとした意味のないページがあったであろうか???
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